先生の名前

 「先生」というのは難しい役回りである。一方で、「教える」「指導する」ことが仕事である以上、そのことを通じて教えられる側(児童、生徒、学生)に影響を与え、できることならば覚えていてもらいたいと思う部分があるのは否めない。しかし他方で、「教える」「指導する」ことが仕事であるからこそ、そのことが持つ影響の大きさにも敏感になる。「教える」ことは、従わせることと紙一重の部分があるからだ。そうだとすれば、教えた人のことなど、忘れてもらった方がよいのかもしれない。
 先日あるドラマの中で、保育士役の人が、「あなたは、保育園(か幼稚園)の時の先生の名前を憶えていますか?(憶えていないでしょう?)」と問うシーンがあった。保育園(や幼稚園)の先生とはその程度のものなのだと、やや自虐的に述べるシーンだった。
 それで、僕は覚えているだろうかと振り返った。保育園については、少なくとも年長の時のクラスの先生の名前は憶えている。なぜ憶えているのかは、わからない。その先生を特段に慕っていたというほどのことではなかったとは思う。でも、僕はなかなか「難しい」園児だったはずなので、何かとその先生は気を遣っていたかもしれない。それで、僕の方も覚えているのかもしれない。
 小学校に入ると、学童保育に入った。これは地域によって違いがあるようだが、広島市では、学童は小学校の中に設置されていた。その学童の先生(正確には「指導員」だっただろうか)の名前も、(多分)憶えている。
 正直なところ、僕は学童にはそれほど馴染まなかったようだ。最初の頃、ドッチボールのルールが全くわからなくて、ものすごくつらかったことをよく覚えている。保育園では、円の中と外に分かれて、外からボールを転がして中の人に当てる「ころがしドッチボール」(と言っていたと思う)しか、やったことがなくて、普通のドッチボールが全くわからず、馴染めなかったのだ。それだけでなく、もともと小学校区から離れた場所にある保育園に通っていて、つまりは学区内=小学校にほとんど知り合いがいなかったことも関係していたのかもしれないが、学童で楽しく過ごす、というところには至らなかったようだ。だから、2年生の終わりまで在籍できる学童を、1年生の終わりでやめたらしい(これは親に聞いた)。道理で、2年生の時に学童に行かずに、クラスの子どもたちと遊んだ記憶が残っているわけだ。
 それでも、その学童の指導員の先生達に、悪い印象があるわけではない。二人いらっしゃったが、どちらの先生もとても優しかった。先生たちの名前を憶えているのも、そのせいだろうか。
 学童に子どもで誰がいたのかは、ほとんど覚えていない。でも、一人だけ、一つ上の学年のある児童(僕にとっては「先輩」にあたる)の名前は、よく憶えている。その人は、学童にあまり馴染んでいなかった僕と、よく遊んでくれたのだ。ドッチボールは最初はわからなかったけれど、ボールで遊ぶのは好きだったので、一緒にドッチボール用のボールでキャッチボール的なことをしていた風景をよく覚えている。小学校1年生の僕にとっては、スポーツができてリーダーシップがあって優しい、ちょっと憧れの「お兄ちゃん」だったのだと思う。
 2年生で僕が学童をやめたタイミングで、その「お兄ちゃん」も3年生になるから学童は終わったはずだ。その後、同じ小学校にまだいたのかどうかは、全くわからない。かなり大規模な小学校だったし、そうでなくても学年が違うとそんなものかもしれない。引っ越し・転校が多い地区だったので、転校していったのかもしれない。僕は4年生から、児童数増大で分離開校した小学校に通うようになったので、ますますわからない(中学校は、また同じところになるのだけど)。
 お世話になったすべての人の名前を憶えているとは言えない。でも、意外に(?)憶えているものなのかもしれない。たとえ、再会することはなくても。

頂きもの

 著者の松尾秀哉さんから頂いていた『ヨーロッパ現代史』(ちくま新書、2019年)をご紹介し損ねていたようです。松尾さん、失礼しました。一人でヨーロッパ現代史を書くという試みにあえてチャレンジされたその姿勢は、素晴らしいと思います。

ヨーロッパ現代史 (ちくま新書)

ヨーロッパ現代史 (ちくま新書)

読書:安藤丈将『脱原発の運動史』

 先日頂いた、安藤丈将『脱原発の運動史――チェルノブイリ、福島、そしてこれから』(岩波書店、2019年)を読んだ。タイトル・サブタイトルから、3.11以後の話かと思われるかもしれないが、そうではない。基本的には「『3.11以前』の脱原発運動」(ix頁)、特にチェルノブイリ原発事故以後の脱原発運動についての本である。
 本書は、その脱原発運動の克明な記述であるとともに、「民主主義」を補助線とすることで、ある種の政治理論的な著作にもなっている。その筆致は、きわめて明晰でありながら、どこかやさしい。安藤さんは「はじめに」において脱原発運動にかかわる女性たちの「強さ」と「やわらかさ」の両立について書いているが、安藤さん自身の文章も、強くそしてやわらかい。

脱原発の運動史: チェルノブイリ,福島,そしてこれから

脱原発の運動史: チェルノブイリ,福島,そしてこれから

30年前のこと

 少し前の記事で、今年はメモリアルな年で、名古屋に来て30年、博士学位を取得して20年(≒大学教員として働き始めて20年)ということを書いた。「名古屋に来て」の方を、もうちょっと書いておきたい。といっても、ただの雑感・振り返りだけど。
 1989年の年があけてすぐに元号が「昭和」から「平成」に変わった。僕は高校3年生。その一週間後が、最後の共通一次試験(翌年からセンター試験)だった。世間は「自粛」も含めてそれなりに慌ただしかったのだと思うが、僕は共通一次試験直前でもっと慌ただしいというか、きっとそれなりにピリピリしていたと思う。
 それなのに試験当日は、遅刻ギリギリというか、半ば遅刻した。「半ば」というのは、(僕の記憶が正しければ)解答開始には間に合っているが、最初の科目の開始前の集合時間(教室で席に座っているべき時間)には間に合わなかった、ということだ。結構なことをやらかしたはずなのだが、試験自体はよくできた。唯一できなかったのは「生物」だった。それも、受験直前に受けた某模試でかなり似た問題が出た恩恵をそれなりに被ったにもかかわらず、悪かった。しかし、受験生全体の出来が悪くて、理科の他の科目よりも20点以上(だったと思う)平均点が低く、そういう場合の措置としての(かなり異例の)「かさ上げ」が行われた。そのおかげで20点くらいアップして、ぼちぼちになった(それでも標準的に見ればギリギリくらいだったが)。そのこともあって、結果的に共通一次の得点は、模試でもとったことのない最高得点になった。「本番に強いタイプかも?」と思ったのだが、残念ながら二次試験にはその神通力(?)は届かず、第一志望の大学は不合格だった(まあこれも、ある意味予想できたことだったのだけど)。試験が終わった瞬間に「ああ、これはダメだな」と思った。その後に、憧れの渋谷に行き、いくつか服を買えたことだけはよかった。
 そんなわけで名古屋に来たのだが、なんだかんだで来るのが遅くなり、下宿探しは少し苦労した。その中で不動産屋に最初に紹介された物件は、今でも強く印象に残っている。そこに行くには長い階段を下りていくしかなく(逆方向からだと普通の道路で行けたのかもしれないけれど)、降りて行った先に切り立った壁に接する形で、かなり古い(確か)平屋木造の家があった。間取り自体はそれなりにゆとりがあり、トイレ・風呂も付いていたはずだ。でも、明らかに建物は古く、アクセスは(上記のように)不便かつ大学からも少し遠く、さらにちょうど雨が降っていたこともあって、なんとなく気分が沈みがちな感じがした。結局、そこではなく別の物件に決めた。まあそちらも決して立派とまでは言えなかったのだけど・・・。
 というわけで、最初に見た物件は、決してよい印象だったわけではない。でも、だからこそと言うべきか、印象に残っている。きっと、「これから名古屋で一人暮らしをするのだ」という、少し緊張しつつ寂しい気持ちと、物件の様子・天候がシンクロしたのだろう。
 先日、その物件があったはずのあたりを訪ねてみた。町の名前を憶えているつもりで行ってみたのだけど、結局わからなかった。その家自体は当時でもすっかり古かったので、取り壊されているかもしれない。でも、階段は見つかるかなと思ったのだけど、わからなかった。もうちょっと歩いてみればわかったのか、それとも記憶間違いをしていたのか、どちらなのかはわからない。でも、名古屋での生活の最初の最初だった。
 あれから30年が経ち、まだ名古屋にいるとは思わなかった。
 
 

頂きもの

1)著者の皆様からということで、大賀哲・仁平典宏・山本圭編著『共生社会の再構築II デモクラシーと境界線の再定位』法律文化社、2019年、を頂いておりました。どうもありがとうございます。

共生社会の再構築II デモクラシーと境界線の再定位

共生社会の再構築II デモクラシーと境界線の再定位

2)安藤丈将さんからは、『脱原発の運動史――チェルノブイリ、福島、そしてこれから』岩波書店、2019年、を頂きました。どうもありがとうございます。「民主主義」を補助線としながら脱原発運動を読み解く試みです。

脱原発の運動史: チェルノブイリ,福島,そしてこれから

脱原発の運動史: チェルノブイリ,福島,そしてこれから

頂きもの

1)富永京子さんから、『みんなの「わがまま」入門』(左右社、2019年)を頂きました。どうもありがとうございます。社会運動=「わがまま」とする卓越した表現力で、主には中学・高校生を念頭に置きながら、「わがまま」=社会運動の意義と実践の仕方について解説する本です。早速拝読しましたが、現代社会論としても読めると思います。

みんなの「わがまま」入門

みんなの「わがまま」入門

2)井口暁さんから、『ポスト3.11のリスク社会学――原発事故と放射線リスクはどのように語られたのか』(ナカニシヤ出版、2019年)を頂きました。どうもありがとうございます。主にニクラス・ルーマンに依拠しながら、原発事故をめぐる論争を分析しようとするものです。
ポスト3・11のリスク社会学: 原発事故と放射線リスクはどのように語られたのか

ポスト3・11のリスク社会学: 原発事故と放射線リスクはどのように語られたのか